上流:海洋国家の沸流百済

沸流が弟(温祚)と分かれなければならない内部分裂までもあえてしながら「土湿水鹸」で「不得安居」した海浜弥部忽に定着すると固執した裏面には、はじめから海上王朝を建設せんとする建国理念があったのはあきらかである。

古代のギリシャ民族が都市国家を建設しながら海外へ進出したように、交通が不便な海岸・島嶼の統治は中央集権的な郡県制度よりも血統的な子弟宗親に統治を委任する分権制がより便利であったためである。

遼西進出は軍事目的であり、倭国進出は領土拡張、越州進出は民族移動次元で展開された商業的進出であった。

船舶こそ海上民族自体である。

  • 櫓(ろ)・帆(ほ)・舵(かじ)

紀元初の船舶に関する記録は、すべて中国文献に記録されているので区別が難しいが、櫓には元来、文明圏的次元で、互いに異なる二種類の櫓がある。そのひとつは朝鮮櫓であり、もうひとつは遊園地などで遊具として使用されているボートの櫓である。

ボートの櫓は、一雙、二雙または、多くの双を左右対称に装着されており、ボートに座り引っ張る反作用でもって船を前進させる。ところが、朝鮮の櫓は船一艘にひとつ、または幾つかの櫓を装着したとしても、左右対称ではない。そして竿の長さが、たいそう長いながら、腰が若干中腰にかがみながら漕ぐように弾性が与えられ、握り手を前後に動かしながら腕で押して引っ張ると、水中の櫓先がくるくると回転しながら発生するスクリュウ作業によって船が前進するので機能面が全く違う。

『中国の科学と文明』を著作した英国のJ・ニダム氏は「巧妙な櫓」の世界史的な意味を次のように興味深く指摘した。 「櫓は英国海軍で大変注目された。1742年、スルプ船舶に一組の中国式(朝鮮式)櫓を装着して、実験したという海軍省の文書がある。何年か後にベルヌイは外輪車より、スクリュウのほうが立派ではないかと反問するにいたった。」 いわば、英国海軍が現在船舶のスクリュウの開発した最初の発想は、櫓先の回転作用に着眼されたものであった。

百済人たちが朝鮮半島から舟山群島に渡るとすれば、東アジア(黄海・東支邦海)を横断しなければならならない、そうするとなれば、ヨーロッパの地中海とか北海沿岸とは異なり、荒い黒潮の流れを横断しなければならなかった。ゆえに百済船は櫓(ろ)・帆(ほ)ならびに、舵(かじ)をすべて具備した海船であったという結論になる。

  • 羅針盤

羅針盤は中国人たちが自慢する世界的発明品のひとつである。しかし、中国の伝統的である船舶は、明国時代にも櫂型江船であった。江・河と運河には航法は必要でない。航法は必要でない内陸水運において、羅針盤がなぜ必要なのか。それこそ疑問である。なおかつ二百年余も展開された、唐後半の対日貿易において、新羅船はあっても、唐船は一度も記録されたことがない。

五代と宋時代も中国内で活動していた海民たちを、中国の天子自身が「長淮茂族」であり「漲海雄藩」そして「百済之民」とした。 「長淮」は長江-淮水であり、「漲海」はまさに広東省一帯の南中国海沿岸であるためだ。宋で海船を建造して、または対外交易に従事していた宋商の大部分は、在宋高麗人たちであった。

そうであれば羅針盤は、誰が開発したのか。内陸水運にこだわった中国人たちが開発したのか。それとも櫓型海船で、対外貿易に従事していた百済系海民たちが開発したのか。答えはあまりにも明白である。