高句麗の大莫離支・淵蓋蘇文が天武天皇?

この事を最初に主張されたのは、小林惠子氏(日本古代史)であった。李寧熙氏(東京出身の韓国人作家)は、小林氏の説を踏まえて、『万葉集』の解読などからその証拠となし得るものをいろんな箇所で解説しています。

『日本書紀』は淵蓋蘇文の遺言まで叙述している

淵蓋蘇文の没年について、韓国の『三国史記』には単に「666年」と記されているのに対し、『日本書紀』は、「664年の10月」と詳記し、遺言についてもこまごまと書き表している。

「お前たち兄弟は魚と水のように互いに睦みあい、爵位を争うことがあってはならない。そのようなことをする と必ずや隣の国に笑われるであろう…」

本国の史書にもない大臣の遺言まで『書紀』が記載する必要がどこにあるのか…

道教に精通している

『書紀』によると、天武は「天文と陰陽五行思想によし」とされている。淵蓋蘇文もまた、道士を唐から招き、道教とその方術をとり入れるのに熱意を見せた。

どちらも「水の中から生まれた」と言っていた

淵蓋蘇文は、日頃「水の中から生まれた」と自称していた。天武も自ら「水中で生まれた青竜」をもって任じていた。

どちらも徹底した反唐派であった

「任武」の「任」は「大海人」を意味する

『三国史記』『新唐書』『資治通鑑』などに、高句麗の宝蔵王6年、王の次男莫離支任武が入唐、唐に反抗したこと を謝罪したという記述があるが、この「莫離支任武」は「莫離支淵蓋蘇文」と推定される。

」は「人」と「壬」という字で構成されている。古代中国の四柱推命学における陰陽五行の解釈によると、「壬」は「陽の水」に属し、これは「大海」を指すものである。「壬」即ち「大海」に「人」を合わせると、「大海人」で、天武の即位前の名前となる。

天武の諡「天淳中原瀛」もまた「天武が水と関係のあること」を表している。

「淳」は「止水」を指す漢字で「沼」 のこと。「淳中」はヌブナつまり「沼生まれ」の意。「瀛」も「大海」を指すと同時に、「おき」とよまれるこの漢字を使うことで「来」の意の韓国語「オギ」を暗示している。しかも「天」と「原」を用いることによって、天武が「韓から天降りした」人物である事実まで明らかにしている。要するに天武のおくり名は、「高天原からやって来た沼生まれ」の意である。

『万葉集』巻1ー25に天武天皇作の歌がある。

「み吉野の耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける・・・・」とよま れてきたものだが、その中に「隈もおちず」(隈毛不落)という個所がある。李寧熙氏は、これを「くまの季節がやつ て来る」と解いている。「くま」とは、「狛族」を意味し、主に高句麗人を指した。吉野に逃げた天武(大海人)は、 (百済人の天智に勝てば、これからは)自分たち高句麗人の時代になると言っているのだ。

韓国ドラマから淵蓋蘇文をイメージしてみよう。

前半:怯えながら詔書を読む唐の使者

後半:カリスマ性がある淵蓋蘇文