中流:沸流百済の滅亡
3、沸流百済の滅亡(広開土王碑)
広開土王碑の文で核心となる部分は利残国を討滅したという
「王躬率水軍 討利残国」である。
「碑文は百済を百残と右記しながらも、ここでだけどうして科残(利残)と異称を使用したのか?
「利残」という名は都邑地(久麻那利)と国家系譜(残系)が明示された沸流百済の高句麗側呼称であるので、漢城の温祚百済と同一でない。
「利残国」は「沸流百済」である。
4、沸流百済の滅亡後
当時の応神が遠く離れた畿内に位置していては、下図のような複雑な事態が果して11月中に進行することができたであろうか?
当時の通信手段としては人の便に依る伝達しかなかったことを考慮する時、
このような双方間の事態があったことは、当時の応神が畿内ではなく熊津にいなくては敢えて考えることすらできないことである。
【畿内と百済との双方の事態過程】 月 事態(三九二年) 十月 関弥城失陥 十一月 十余日の辰斯王の狩猟 辰斯王の行動が応神に伝達、激憤 神の紀角宿禰派遣 十一月 角宿禰の裏面工作 十一月 行宮で辰斯王殺害 十一月 阿華王を擁立 十一月 角宿禰の帰還報告
内朝の開設年度を沸流百済が滅亡した次の年である397年に仮定すれば、応神は彼の即位(390年)から畿内朝開設(397年)まで建国前史7年をすごした結果となる。即ち、応神の建国前史7年は神武の即位前史7年と一致する。神武が前史7年目に即位したように、応神も前史7年目である397年に即位した。この年はまさに沸流百済が滅亡した次の年に該当する。したがって建国前史7年の一致こそ神式と応神が同一人物であると同時に、畿内朝の開設年度が397年であることを立証する決定的な根拠となる。
応神亡命の時期は396年9月頃
応神人皇が誕生したという北九州「蚊田」(福岡県糸島部前原町)がまさに日本列鳥に最初に上陸した地点。
神武(応神)が出発したという「崗水門」(福岡県遠賀部盧野町)から瀬戸内海を経て畿内(奈良)へ移動した。
397年正月に「橿原宮」(奈良県橿原市)で即位した。
5、消されていく沸流百済
百済・倭間の最初の修交で沸流百済の亡命政権(畿内朝)が自分の旧地を温祚百済に還付したといい、また他方では温祚百済の受動的姿勢を見る時、これは畿内朝が朝鮮半島に棄てて来た旧地を百済に譲渡する代りに、百済はこれを引受けるという条件の下で為質修交を締結するようになったのを知ることができる。これに依って上記の「百済記」は亡命政権(畿内朝)の旧地を処理した外交記録であるだけに当然『日本書紀』本文に記載されるべきであるが、そのようにする場合には畿内朝の亡命事実が暴露されるために、領土拠棄を奪取してから還付したかのように書いてから、「百済記」という文献から引用した形式で為質修交の根拠だけ残したものである。
百済本紀も安城川以南をはじめから自分の領土であったかのように仮構したので五個圏域の引受けを明記することができなかったのであり、たとえ立場は異なっても実在の事実を記録することができなかった事情は畿内朝の場合と同じであった。
畿内朝は畿内朝として、百済は百済として、沸流百済を消してしまわなければならない史観上の一致に依って、沸流百済の四百年王朝史は歴史の舞台から消されてゆく運命にあったのであった。