上流:沸流百済の存在
1、沸流と、温祚の南下
2つの南下過程がある。
沸流は自殺してしまった。(『三国史記』百済本紀)
東明の後に仇台(クイ)がいたが、東夷の強国となった。(百済本紀 序説中の異説)
沸流と仇台は役割が同一であり、建国地と活動時代がみな合致する。
同一時代の同一地域で同一機能を遂行したこの二人は同一人物であるしかない。
2、召西奴 殺害される
BC六年条を復原する
温祚十三年(BC六年) 春二月 王都の一人の老婆が男になった。五匹の虎が都城に入って来た。王母が亡くなった。
享年六十一歳であった。夏五月 王は臣下に対して「わが国の東には楽浪があり、北には靺輵があって、
国境を侵しているので少しもやすらかな日がない。
いわんやいまは妖しいきざしがしばしばあらわれ、国母が世を去り情勢がやすらかでないので、
都を移さなければならない。
私が先日漢江の南の地をまわってみたら、土壌が肥えていたから、
よろしくそこに都を移して永久に安全な計を図るべきである」といった。秋七月 漢山の下に柵を立て、慰礼城の民を移した。 秋八月 使者を馬韓につかねして都を移したことを知らせ、ついに境界を定めた。
北は貝河に至り、南は熊川にまで、西は大海に達し、東は走壌に達した。秋九月 都城と宮殿をたてた。 温祚十四年(BC五年) 春正月 郡を移した。
沸流・温祚はたとえ自分の腹から生れても父親が違っているし、彼らの気質すらもはっきりと違っていた。海浜に住もうとした沸流と内陸に定着しようとした温祚の意見対立に因って、彼にまた他の悲劇が胚胎されていた、彼らは南下直後から海浜弥鄒忽と稜山慰礼城に分立したのであった。
事態がこのように傾いてしまうと、召西奴は両陣営を往来しながら結合を図るとともに、分派を固執する温祚側の強硬派を除去するために、慰礼城で沸流側と内通(化為男)して沸流(五虎)の攻撃(入城)を誘引したようである。「老婆が男に化けた」というのはまさにこのような召西奴の裏面工作を意味するもののようであるし、五虎の入城で双方間の戦闘がひらかれるとともに召西奴の利敵事実があらわれると、これに激憤した強硬派は六十一歳の国母(召西奴)を無惨に殺害してしまったようである。国母の殺害が双方間の新しい火種となるや、これに狼狽した温祚は「国母を殺害して勢い安んずることができなくなって、前に見ておいた漢水の南(漢山)へ遷都して、久安の計を図るべく」漢山北遷を表明したのであった。したがって温祚の北遷は五虎入城(沸流側の攻撃)直後のように思われる。