応神天皇が亡命者であることを隠す王仁博士

紀元前から、古代の韓半島からは日本列島に集団で渡る人々が後を絶たなかった。温暖で雨が多い日本列島は水田耕作に適し、川からは砂鉄が採れたし木もよく育った。集団移動は、大きく「三つの波」に分けられる。

第一の波は、紀元前三世紀頃から紀元前三世紀にかけて、農耕・鉄器文化と共に韓半島南部「部族国家グループ」から押し寄せた。

第二の波は、四世紀末の「沸流百済の波」高句麗の広開土大王は沸流百済を攻め、難を避けた王族はじめ、高官、学者、将軍たちは、技術集団を引き連れて日本に渡った。

隠された二つの顔

『日本書紀』応神紀に、「王仁(わに)」が登場する。応神十六年、王仁が来朝した。太子菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は、王仁を師とされ、諸々の典籍を王仁より習われた。その結果、すべて精通されないことがなかった。いわゆる王仁は書首(ふみのおびと)らの祖である。

一方、『古事記』は王仁を「和蒼吉師(わにきし)」にとしている。応神天皇は、百済国に命じて「もし百済国に賢人かおるならば献上せよ」と仰せになった。そこで勅命を受けて献上した人の名は和蒼吉師という。その時に「論語」十巻、「千字文」一巻、合わせて十一巻をこの人に託して献上した。この和蒼吉師は文首(ふみのおびと)らの祖である。

王仁が来たとされる応神天皇16年は、西暦405年にあたる。「千字文」は梁の武帝(502年~549年在位)の命により作られたとされているので、この時にはまだ成立していない。そのため、従来から王仁自体の存在を架空とする説がある。

実際、「千字文」を携えて日本にやって来たという王仁博士は、『書紀』『古事記』のライターによって作り上げられた人形にすぎない。実在人物ではないのである。記紀のライター達は相談して沸流百済から亡命してきた政権を王仁博士に仕立て上げたのである。